これからの音楽人に必要な音楽療法の技



『現代のエスプリ 424号』音楽と癒し…音楽療法の可能性(2002年10月、至文堂刊)所収、p.198-205

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北島京子


気になる現象1
  お年寄りの「不登デイ」


 ある高齢者施設のデイサービス担当の職員の話である。
「最近、気がついたのだけど、決まった曜日になると、決まってデイを休む人が、何人かいるのよ。よくよく調べてみると、それは音楽療法のある曜日だということがわかったの。ご家族の人にうかがったところ、『おじいちゃん、きょうは音楽をやらされるから行かないって、布団をかぶったまま起きてこないんですよ』とおっしゃるじゃありませんか。施設としても音楽は人気メニューだと信じて、音楽療法を導入しているんですけど」。
 ショックな話である。小中学生たちの「不登校」ならぬ、お年寄りの「不登デイ」。そしてデイに行かないその理由が、「音楽療法」にあるとは。
 その通所者にとって「音楽をやらされる」ということが、ほとんど「いじめ」に近いものに感じられるのか、「無気力」を引き起こす原因になっているのか、どちらかなのだろう。
 
また、ある医療職の人は、こう話した。
「しっかりしたご老人の方ですが、こうおっしゃるんです。『また鈴を振らされるかと思うと、もう。頼むからあの時間には、誘わないでくれ。そして私がこの先、もしも呆けて自分で判断がつかない状態になっても、あれだけはやらさないでくれ』って。私が笑って聞き流しますと、ご本人は真剣になって『本気ですよ、遺書にしたためますから』とまで言い出すんです。笑いごとではありません」。
 さらにショックである。このご老人にとって自分のプライドにかけても守りたいものが、音楽療法に参加しないという意志なのである。この人をここまで頑なにさせてしまったものは何なのだろう。単なるガンコ老人の好き嫌いのレベルではない、もっと本質的な原因が、音楽療法を提供する側にひそんでいるのではないだろうか。
 
 音楽療法は「誰のためのものか」を、改めて考えてみる必要がある。言うまでもなく患者さんをはじめとする、病気や障害、弱い部分をもった「対象者」が主人公、音楽療法士はその支援者であると、誰もが答えるだろう。
 しかし現実は、本当に音楽療法を受ける側すなわち「対象者」のニーズと、音楽療法を見守る側すなわち「対象者のご家族や、対象者を受け容れている各病院や施設の職員たち」のニーズに応えた内容になっているだろうか。


気になる現象2
  供給側の人数は、なぜ増える? 


 音楽療法を実践する人はさまざまな領域(医療・福祉関係)に身を置く人も多い。が、なかでも町のピアノの先生や音楽教室の指導者など、これまで音楽教育に携わってきた人々が圧倒的に多いのが特徴と言える。
 これはなぜだろうか。「近年の少子化で子どもの生徒が減ってしまい、時間が余り、減収となった。そこで、音楽療法の世界に活路を求めて」という動機を強調する人が多い。もちろんこれもある。が、これだけではない。それ以上に「音楽療法へ」と彼らを突き動かす何か強い要因があるように感じられる。
 子どもの頃から一生懸命音楽を学んできたが、どうもその音楽で幸せになれないと感じた時に、音楽をする意味を自分で問わない人はいないはずである。音楽療法に注目する人の中に、これまで自分の受けてきた音楽教育に必ずしも誇りを持っていない、逆に、懐疑や悔恨さえ抱いている人が多いことが、気になる第二の点である。

 人と人を結びつけ、人を幸福に導くはずの音楽が、そのように働かず、技術偏重主義・競争主義・教条(権威)主義の音楽教育の中で、逆に人をバラバラにしてきてしまった。さらに、コンクール指向や受験教育による点数還元主義は、成長期の子どもの心身のバランス良い音楽的発達や柔軟な音楽的感受性の芽を摘んでしまうことを実感してこなかった人は稀だと思う。
 そんな時「音楽療法」のことばが、魅力に満ちたものとして登場する。自分自身が受けた音楽教育への懐疑とともに、それへのアンチテーゼとして「音楽療法」に着目した人は多い。「音楽をする意味」を、音楽療法の中でもう一度、問い直したい、音楽療法を通して「自分探し」をしたい、という切実な動機があるように思われる。こうした人は今後も増えるはずだ。
 近年の音楽療法の実践をになう人に、音楽教育に携わってきた層が多いことの意味を、もっと深く考えるべきではないかと思う。


気になる現象3
  潜在需要層も増えてはいるが 

 平成一四年の「敬老の日」の発表(総務省統計局)によれば、日本人の一八・五パーセントが六五歳以上、つまり「五・四人に一人が、六五歳以上」となり、七五歳以上の人口が初めて一千万人を突破したという。超高齢化社会がいよいよ現実になってきている。
 西洋近代医学の発展によって、確かに、心臓停止までの命の長さLOL (レンクス・オブ・ライフ)は達成された。が、それは、人間としての命の質QOL(クオリティ・オブ・ライフ)も達成されたこととイコールではない。逆に命長ければ苦しみも多いのが現実である。自殺者の数が年間三万人を越えるようになったことも、気になる。
 かつて「病気」ならば、医者に診てもらって治療し、治れば「元気」になった。「病気」と「元気」の二元論で割り切れた。しかし、現代は「病気」と「元気」のあいだの黒でも白でもないグレイのゾーンが多く存在することになった。例えば、慢性疾患、免疫系の病気、身体の障害、心の病、老化など。これらは、新薬や手術では治せない。
 つまりこれからは、「急性期の治療(キュア)」に対して、「慢性期の養生と介護(ケア)」に費やす期間がますます増大することになる。
 
こういう時代に音楽療法はどういう力を発揮できるのか?どんな役割が期待されているのか?


代替医療の一環としての位置づけを

 西洋近代医学は「急性期の治療」を得意としたが、「慢性期」の状態に対しては歯が立たないことが多い。
 これからは人間の「生老病死」まるごとといかにつきあっていくかを取り込んだ医療への模索を、避けて通るわけにはいかなくなってきているのである。医療は「病の治療」だけではなく、人間の「命」や「心」に目を向けていかなければ成り立たなくなりつつある。
 ところが、生命はもともと「複雑系」である。機械のように切り刻んで悪いところを取り除いて再び合成しても、もとの全体には戻らない。ある細胞をめがけてレーザー照射しても、健康な組織まで一緒に殺してしまうという副作用が大きすぎた。
 これからは「全体性」や「部分と部分のつながり」を、無視できなくなるだろう。
「命」や「心」は、「全体性」からしか眺めることができず、部分と部分の「つながり」が意味あるものなので、西洋近代医学が得意とした細分化や合成の論理では説明できないのである。
 通常の西洋医学を補う代替療法(オルタネイティブ・メディスン)、補完療法(コンプリメンタリ・メディスン)の各種療法の中には、生命の全体性やつながりを重視するものが多い。医学全体が、人間まるごとを見るホリスティック医学の視点に立ち始め、市民権を得つつある。そうした流れが、アメリカから伝わってくる。
 日本の厚生労働省にあたるアメリカのNIH(国立保健研究所)内に、正式に「代替医療研究室」が開設されたのは一〇年前である。また、アメリカの半数以上の医大では、代替療法を学ぶ学科が設けられている。さらにアメリカ人の医療保険費が、通常の西洋医学に支払った金額よりも、代替医療に費やした金額のほうが上回っていることも興味深い。
 西欧近代の知をもって西洋医学がここまで進歩したお陰で、その限界を越え、ホリスティック医学への重要性にめざめつつあるようだ。こうした価値観の転換期、時代の過渡期に生まれ合わせたことは、ありがたいことだ。
 と同時に、音楽療法こそ、西洋医学を補う代替医療の一環として「ホリスティックに人間を考える」という文脈から出発することが望ましい。でないと、音楽療法はEBMの数値とデータだけが一人歩きするあやしげな療法と受け止められかねない。
 音楽が、ある臓器を治すことはないし、音楽と治癒との因果関係や効果の持続性、再現性は数値にはなりにくい。なぜならば、音楽は対象者とその人を取り巻く「場」の全体に働きかけ、人と人とのつながりに何かを生じせしめるものだからである。このことが前提である。
 EBMの裏付けをもった西洋医学で身体は治せても、心は癒せない。だから、音楽療法に意味があるのである。


供給する側の論理 

 以上の「3つの気になること」を総合してみると、自然に導かれる問題がある。
 昨今の音楽療法が、受ける側よりも「供給する側の論理」優先で進められていないだろうか、という点である。
 音楽療法を実践したいという人は多い。が実践場所がないという声をきく。本当にそうだろうか。
 高齢者のための各種施設およびさまざまな障害者施設、養護施設などが、現在国内に約一万八千箇所ある。(ここ数年のうちにさらに増え続ける傾向にある)。これらは音楽療法の貴重な実践場所である。
 それに対して全日本音楽療法連盟が認定した音楽療法士の資格保有者は平成一四年現在、五百八十人余。資格の有無に関係なく現在、施設での音楽活動に携わっていると推測される総数は、およそ三千人程度。数の上では「実践現場が足りない」状況ではない。だが実際には「実践現場が足りない」と言われる。
 ひょっとすると「押しかけ音楽ボランティア」に辟易した施設側から「ノーサンキュー」が言い渡され、実践者は締め出しをくらっているケースもあるのだろうか、という不安もよぎる。


受ける側のホンネ

 では、受ける側は、どのような音楽療法ならば安心でき、満足できるのだろうか。
 それには、仮に自分が「音楽療法を受ける側になった場合」を想像してみることだ。

・緊張したくない、気分をラクにしたい、心のマッサージ
 をしてほしい
・むずかしいことはいや、楽しみたい。新しいことに挑戦 させられるのも辛い
・自分の好きな音楽や、馴染みの歌があれば嬉しい
・ドキドキわくわくしたり、気分転換の助けになればいい
・おしゃべりや気軽な質問ができる雰囲気がほしい
・ただ聴いて黙って座っているだけの参加も認めてほしい
・フラッと立ち寄れたり、参加しない自由も認めてほしい

 この程度のことが多いはずである。それほど高度なことを受ける側は期待しているわけではない。まず「自分が受ける側だったら」の立場に立ち、「やってほしくないこと」を消去していく。

 結果的に「たいしたことではないこと」「当たり前のこと」が残ってくるが、右に挙げたことすべてを肩に力を入れずに行うのは、初歩の実践者には結構大変なことである。


現場で必要な力と技

 音楽療法の実践者にはその場ですぐに取り出せる「音楽の貯金」が多ければ多いほどよい。しかも、その貯金をその国の「通貨」で取り出せることが必要である。対象者が好む音楽、リクエストする音楽のストックを、対象者の生活してきた音楽文化にピント合わせて提供できなければ意味がない。
 青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」を、ソプラノの完璧なコールユーブンゲン的ソルフェージュで唄っても、対象者には別の歌に聞こえることだろう。歌には、香りや色がある。その人が育ってきた時代・環境・嗜好がそこににじみ出る。音楽大学や教室では教えてくれないが、現場では必須の要素である。

 対象者のために即興で伴奏でき、即興で曲を演奏できなければいけない、とよく言われる。
 即興の技術に関して言えば、先進国のある種の規範やお手本を理解してなぞる力よりも、現場の空気を読みとり必要に応じて同化できる身体感覚と、限られた簡単な音を使って問答できる創意工夫性のほうが、より大事と思われる。伴奏力は、和声づけ以上に、対象者の呼吸とテンポに同調できる「気」の読みとり力が求められる。

 音楽療法は理屈ではない。音楽は「感性言語」であるため、感覚や感情にふれるものである。対象者が、まず音を楽しむことができ、いい気持ちを実感できなければ、どんなに立派な理論や目標が用意されていても、活きない。音楽を楽しむ、満足する。
これが出発点である。
 カロリー計算上や栄養学的にいくら完璧な数値を示していても、「だ液」が少しも分泌されないで食べる食べ物は身にならない。音楽療法は、栄養学の知識よりも、あり合わせの素材でいかに美味しい料理を作れるかが勝負である。管理栄養士の「頭」ではなく、現場の料理人の「腕」が求められる世界である。

 音楽療法の勉強は、技術主義、競争主義、点数主義とは正反対の側にゴールがある。
 演奏技術のレベルが問われるのではなく、現場での応用力のレベルが問われるのである。また、人よりいかに抜きん出るかではなく、人からいかに信頼され慕われるかである。そして、点数で表せば大事なものがこぼれ落ちる代わりに、五感を総動員して接すれば何かが伝わり、何かが返ってくるのが実感できる、誠にデリケートなセンサーで評価される世界である。
 音楽療法の最も正直な審査員は、目の前の対象者である。対象者の目をいかに輝かせられるか。 

これが音楽療法の成績表である。


隣接分野との連携

 また、これからの現場で重視されることになるものに「チーム・アプローチ」がある。留意しなければならないことに、音楽療法が独自で力を発揮することもあるが、多くは、さまざまな他の職種と連携しリンクし合って、複数の力が掛け合わされた結果、相乗効果としての成果が認められるのである。その場合も、音楽療法の実践者はそれを一人の力によるものだと錯覚しがちなケースが、ままあることである。
 作業療法士や理学療法士、言語聴覚士、臨床心理士をはじめ、介護士、看護師、施設職員など、複数の職種の人たちと共通言語で話しができる視野と知識と経験を身につけていかなければ、音楽療法は現場から取り残されてしまうおそれがある。音楽を専門に学んだ人は、感性が豊かな割に、一般の人に通じる言語ボキャブラリーが乏しいことを自戒せねばならない。


音楽独自の力

 しかし、独りの力で大きな世界を創り上げている音楽療法家もいる。最後にその一人を挙げておきたい。
 丹野修一という作曲家である。精神分裂病(統合失調症)の患者さんたちが一緒に参加する、独自の即興合奏療法を編みだし実践し続けて三十数年。その音楽は、膨大な数にのぼる。同じ曲でも聴くたびに、その合奏の参加メンバーによって、その場の空気によって、毎回違う音楽となって聞こえる。
 これらの音楽にふれてまず直感することは、「自然界」から何らかの啓示とインスピレーションを受けているのだろうということだ。水や風や光や大気の揺れに始まって、星のきらめきや季節のめぐり、潮の満ち引きを思わせる大きな「循環」。単なるパターンミュージックの機械模様ではない、果てしなく続く流転と揺らぎから生まれる音のアラベスク。温かさや湿り気、でこぼこの手ざわりの中に、不思議な調和感が得られる。
 「倍音」の多用も特徴のひとつと思われる。それが不思議な共鳴をもたらす。
 そしてこれらさまざまな要素を「統合」させるのは、丹野氏の指揮の「呼吸」である。
 丹野氏の音楽は、これからの「音楽療法の音楽」研究のカギを握る大いなる示唆を存分に含んでいるはずだと確信する。

(きたじま・きょうこ 企画編集者、『イキイキ音楽療法のしごと場』編集発行人)


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コメント:

 音楽療法に関心のある人たちの間で、大切に読まれている雑誌があります。僕がその初刊である「チャレンジ!音楽療法士」を初めて読んだ時、日本にはこれほど音楽療法に関する情報や知識を網羅した雑誌があるということに、まず驚きました。その編集をしたのが、この北島京子さんです。それ以来、北島さんは日本の音楽療法界になくてはならない人だと、僕は思っています。
 
 北島さんは現在独立して、「あおぞら音楽社」の代表取締役をしておられます。「社長兼、編集長兼、営業員兼、雑用係り」をやっておられるとの本人のことばに、僕はまた安心しました。そういう出版社は、信頼がおけます。

 「あおぞら音楽社」が次に発行するムック『イキイキ音楽療法のしごと場』の第2号は、「あそび」をテーマにしていて、僕も執筆をさせて頂いています。
 3月上旬発売ですので、第2回全日本音楽療法学会に間に合うようにと祈っています。 これも、是非お読みになって下さい。

(注:ムック=単行本として発行される、写真やイラストなどを多用した情報提供性の高い本。)

大滝昌之


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