家族の扶養義務制度について考える


2002
10月〜11月、「福祉フォーラム」レジュメ

クラブEKO代表 大滝 昌之


●福祉の現状

 現在日本では、平成15年に予定されている社会福祉構造改革の実施を目の前にして、様々な動きが急速に進んでいる。高齢者福祉に関しては、1989(平成元年)にいわゆるゴールドプランが策定され、また社会全体で高齢社会を支えるという視点から、20004月からは介護保険制度が施行された。障害者福祉でも1995年に障害者プランが策定されたが、これらの新しい福祉政策の基本目標の根底には、誰もが地域で共に生きる社会を目指す「ノーマライゼーション」の理念と、人権尊重に基づいて人間的復権を目指す「リハビリテーション」という二つの理念がある。これらの福祉政策は、それまでの中央集権的な福祉政策から地方分権的な福祉政策への転換であるとともに、措置制度という、いわゆる「周りがあてがう」形の福祉から、契約制度という、利用者が個々のニーズに基づいて自らがサービスを選択する形の福祉への転換でもある。

 そこで、社会福祉基礎改革の理念が個人の尊厳と自立を基本とし、本人による選択を尊重した制度の基に、福祉サービスの拡充と地域での生活を総合的に支援するための地域福祉の充実が謳われているのであれば、支援費制度というものあくまでも本人のニーズに適応するものでなければならない。
 また、誰もが地域で共に生きる社会を目指す「ノーマライゼーション」の理念に基づいた地域福祉を遂行するためには、サービスを提供する側のみならず、共に生きるべき社会の側にもその理念であるノーマライゼーションの考えが浸透して行かなければならない。

 しかし現状は全国の自治体の福祉サービスの整備状況は非常に遅れているばかりでなく、自治体によっては、そのサービスの内容や状況に大きな格差が生じていることがわかる。さらに、今までの施設型福祉から地域型福祉への移行を目指している障害者福祉を見ても、その姿勢とは裏腹に入所型施設に住む障害を持つ人の数は年々増加しているし、「親亡き後の不安」から、未だに入所施設の設置を求める声が多いのが現状である。また、ノーマライゼーションやリハビリテーションなどの理念自体も、まだ日本の社会に浸透しているとは言い難い。それは、例えば介護疲れによる悲劇や幼児虐待が日常的に繰り返され、障害者の人権問題や社会復帰の機能の欠如などでも見られるように、社会にはまだまだ「誰もが共生できる条件」が揃ってはいないというのが現状である。


●先進国と日本

 日本の戦後社会の動きを見てみると、急激な工業化社会の発展に伴って地方から都市へ人口が集中し、一方で過疎化が進み、家族の形態も核家族化して来た。それによって単身世帯が増加するようになり、昭和30年までは世帯構成人員は1世帯あたり平均5人であったものが現在では2.8人となっており、この現象はさらに少子高齢化が進むにつれて家族の世帯はより小単位になって来て、今までの日本の社会を構成してきた家族制度は、実態として崩壊しつつある。

 これらの動きは日本の社会の動きだけではなく、例えば福祉先進国と呼ばれるスウェーデンなどの福祉先進国にも共通しているものであり、世界的に見ても、先進国では社会の動きや生活の形態が同じような経過を辿っている。
 しかし、先進国が個人単位の社会制度を基本とし、制度というものも社会と個人の関係で構成されて整備されているのに対して、日本では未だに制度上は家族と社会の関係が中心である。

 スウェーデンなどの福祉先進国でも、昔は家族のことは家族が面倒をみるという形態はあったが、社会が近代化されるにつれて、個人というものが社会の中でより尊重されるようになった。 欧米の先進国では、家族の基本は夫婦と子どもであり、親は子どもが成人するまでは養育・扶養の責任はあるが、子どもが成人すれば扶養義務はない。また、子どもが年老いた親を扶養する責任もない。つまり、成人すると、誰もが一人の人間として責任を持つということであり、何かの理由で独自の力では生活に不自由な場合、それに対する援助や保護は社会とその個人との関係によって成り立っている。
 一方で日本は、社会が近代化へと進み先進国と言われるようになりながらも、制度的には依然として農耕社会的な家族制度を維持し続けており、民法にある扶養義務制度によって、障害者や高齢者、あるいは自力で生活することの困難な人の生活支援は、一義的には家族がその扶養の責任を負うことになっている。

 家族の扶養義務の範囲についても民法では3親等と非常に広くなっており、3親等の中で誰も扶養する人がいないことを自ら証明しないと生活保護が受けられない。つまり、法律上では個人としての最低水準の生活保障を、生活保護制度が個人としては担えないような状況になっているのである。

注:扶養義務規定

民法第877条 (扶養義務者とその範囲):直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務がある。

民法第879条 (扶養の程度又は方法):扶養の程度又は方法については、当事者間に協議が調わないとき、又は協議することができないときは、扶養権利者の需要、扶養義務者の資力その他一切の事情を考慮して、家庭裁判所が、これを定める。


 福祉の充実ということは、つまりは安心して暮らせる生活ということでもあるが、この日本の古い生活慣習を今も受け継いでいる家族の扶養義務制度は、いつになっても「親なき後の不安」が解消されない悩みに繋がることでもある。
 障害を持つ人の生活支援は、親や家族、あるいは親切な人の援助に委ねられるのではなく公的に保証されるべきであるし、また障害を持つ人の生活は、障害の重い軽いに拘らず、就労の有無に拘らず、公的に保証されるべきであると考える。これらの保証がなければ、単に「施設型福祉」から「地域型福祉」への変換を望んでも、現実的には入所施設を求める声はなくならない。

 これらの状況の中で、知的障害者の3分の1の約10万5千人が入所施設で生活している他に、地域社会で生活している大部分の知的障害者が親や家族のケアに依存しているのである。
 
また、精神障害者の場合でも、精神保健福祉法の保護者義務規定が緩和されたにせよその背景にあるこの民法の規定は、精神障害をもつ自立困難な子どもを何歳になっても扶養する義務を親や家族に課しているのである。


●支援費制度と家族の扶養責任

 支援費制度の趣旨は、「支援費制度の下では、障害者がサービスを選択することができ、障害者の自己決定が尊重されるとともに、利用者と施設・事業者が直接かつ対等に立つことにより、利用者本位のサービスが提供されるようになることが期待される。」となっている。

 しかし、例えば勘案事項の中には「介護を行う者の状況」ということが明記され、家族の可能な範囲における介護負担を想定した観点が含まれており、これでは本人の自立支援の方向とは逆行することになりかねない。利用者本位のサービスとは、本来的には、障害を持つ人が同居親族の介護から離れて、本人が文字通り自立した生活を送ることが出来るように、本人の意向とニーズにそった支援計画の策定を行うべきである。
 家族の介護や援助を受ける事自体はその家族の関係の中では自然なことかも知れないが、その家族援助を想定した制度を作ることは、本人の意思を尊重している事にはならない。

平成138月の「支援費制度担当課長会議資料」によれば、『支援費制度においては、施設訓練等支援及び居宅生活支援(知的障害者地域生活援助を除く。)を受けた者は、利用したサービスに対して、本人又はその扶養義務者の負担能力に応じ、厚生労働大臣が定める基準を超えない範囲内において市町村長が定める基準により利用者負担額を支払うこととしたものであり、具体的な設定については、(1)低所得者に配慮し、所得に関わらず必要なときに必要なサービスが利用できるような利用者負担体系とすること、(2)在宅サービス利用者と施設サービス利用者との負担の均衡を図ること、(3)全体としてこれまでの公費負担水準を維持することを原則として今後具体的な内容について検討していくこととしている。』、ということである。

 また、扶養義務者の範囲については、『利用者の負担に関する法律上の規定は、身体障害者(知的障害者、障害児)又はその扶養義務者(民法に定める扶養義務者をいう)とされており、従来の考え方と同様にまず本人からの負担額支払いに重点を置き、その補完的な位置づけとして扶養義務者からの負担額支払いを求めることとしている。』とされている。

 ちなみに今の制度では、世帯全体の収入が算定される場合(厚生医療、補装具、日常生活用具、知的障害児施設)、世帯内の生計中心者収入が算定される場合(ホームヘルパー派遣、知的障害者ガイドヘルパー派遣、身体障害者・児、知的障害者施設(授産施設の場合、必要経費及び授産工賃算定の控除あり)、利用者本人の所得が算定される場合(身体障害者ガイドヘルパー派遣)などの形態があり、また、年金や手当等についての所得制限も、扶養義務者の収入が影響する。

 利用者負担とは、つまりは福祉のサービスを受ける場合に、利用者がそのサービス料の一部を負担することであるが、このように利用者負担の算定には、本人の収入に加えて扶養義務者である親・家族の収入が根拠になる。つまり、障害を持つ人が「ひとりの人間」として社会で生活するためには、経済的にも親や家族に依存しなければ、本人が必要なサービスが受けられない仕組みにもなっている。


●自立した生活

「親亡き後の不安」は、結局は「親である自分がいなければ、誰が子どもの面倒を見るのか?」ということへの不安である。この「子どもの面倒を見るのは、親である」という考え方は、子どもが自力で生活をすることが出来ない、文字通り子どものうちは当然である。
 しかし日本では、昔ながらの家族制度の中で、子どもが成人しても子どもは子どもであり、それが何かの理由で自立生活を送れない場合には、一生涯その面倒を見ることは親として当然のことであり、一生子どもの犠牲になることも善とされて来た。またそれは、家族制度の名の下に、いわゆる「日本人の美徳」ともされて来た。

 社会の最小単位が家族であるならば、家族の一員それぞれが助け合うということは、これまた当然のことであり、また人間の生活というものは、その意味では世界中共通しているとも言える。
 しかし、農耕社会のように家族の連携から成り立っていた社会から発展した近代社会の中では、親も子どももそれぞれが個人として生きてゆく上で、生活の支援に関して家族が互いに扶養する義務が制度化されていると、お互いを縛り付ける状況さえ生み出してしまう。

 現代は、それぞれの状況をもつ個人が、お互いの存在を認めながら共存する共生社会、つまりそれぞれ自立した個人が、お互いを尊重しながら生きて行くノーマライゼーションを理念とした社会作りを目指しているはずである。 生活における自立というものは、それが家族であろうとも、特定の人に依存することや特定の人の犠牲にならずに、自分自身の生活を送ることが出来るということでもある。
 
いわゆる家族の介護疲れによる悲劇や、大人の権限とされて来た児童への体罰などが繰り返されないようにするためにも、福祉社会を考える上で個人の尊厳というものへの認識を新たにする必要がある。支援費制度の施行を前にして、日本の福祉の根底にある「家族の扶養義務制度」を見直し、改めて何を以て支援とするか考える必要があるのではないだろうか。

 


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