児童施設と家族の扶養義務
北九州市にて、大滝 昌之
「それ・・・」を感じたのは、昨年群馬県に行った時です。今回で2回目です。最初は、何年か前にスウェーデンの知的障害者連盟FUBの会長と大阪へ行った時でした。「それ・・・」というのは、どうしようもない無力感とでもいうか、とてつもなく厚い壁を感じてしまった、あの感じです。
群馬県では、前橋市を中心に幾つかの地域や場所で音楽のセッションを行なったり、福祉についての話をしたわけですけど、当然いろいろな場所に行きます。スウェーデンでは1999年の末に全ての入所施設は閉鎖されたという話は、もちろん日本の入所施設で行なわれる講演会や音楽セッションの時にも話に出ます。今の日本では、温度差こそあれ、「入所施設はない方が良い」という考え方が広がりつつあることは間違いないでしょうし、また少なくとも機能障害を持つ人たちの福祉に携わっている人たちの多くがそう考えているとは思います。
僕が群馬で目にしたのは、障害を持つ人が住む入所施設の敷地にある「乳児院」でした。それを見た時は、少なからずショックを感じました。乳児院・・・。2歳までの幼児で、家庭環境に問題があったり、あるいはいろいろな事情で家庭に住めない幼児の入所施設です。
スウェーデンでは入所施設がないという話は、日本でも福祉関係の人なら知らない人は少ないでしょうけど、入所施設がないというのは何も障害を持つ人の部門の話だけではなく、とにかくスウェーデンでは、誰も施設には住んでいないんです。幼児や子どもに必要なのは施設ではなく、親がいる家庭です。もし家庭や環境にに問題がある場合、その幼児や子どもたちにしなければいけない事は、代わりの家庭、つまり養家族を見つける事です。
養家族というのは一般的に里親とも言いますが、もちろん日本にも里親制度はあります。国連の「子どもの権利条約」を基盤とする制度の中で、日本には里親、乳児院、児童施設というものがあります。2歳までの幼児は乳児院に住み、それ以上の年齢は児童施設に住むことになっています。現在、里親、乳児院、児童施設に住む児童の割合は、それぞれ1:1:10の割合になっていますから、つまり殆どの児童は児童施設に住んでいることになります。
そこでスウェーデンですが、乳児院とか児童施設というものもありません。みんな里親と一緒に暮らすわけです。もちろん緊急の場合の施設はありますが、それはあくまで里親が見つかるまでの一時的なもので、とにかくそれが機能障害を持つ人であれ環境に恵まれない子供であれ、入所施設というものは廃止されていますから、基本的に施設に住んでいる人はいません。
では、何故スウェーデンではみんな里親と一緒に住んで、日本には里親のなり手が少ないか?
答えは明瞭な気がします。
スウェーデンにはもちろん日本と同じに「親の扶養義務」というのがありますが、これは子どもが18歳になるまです。子どもがそのまま学業を続ける場合には21歳に達するまでの経済的な扶養の責任は親にあると明記されてますが、一般的には子どもが18歳に達すると経済的にも自立して行きます。さて日本はどうかというと、民法第877条、扶養義務者とその範囲という条項に、「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務がある。」と定められています。年齢に関わらず、家族は互いに扶養義務で結ばれているわけです。そして、年金や手当等の所得制限も、扶養義務者の収入が影響します。

日本では、例えば大学に入った場合など親の資金の援助を必要とする時は「親の脛をかじる」という表現をしますけど、スウェーデンの大学生で親の脛をかじっている人は、恐らく珍しいでしょう。もちろんスウェーデンでは大学の入学金も授業料もないですけど、でも生活して行くにはお金がかかります。本代も結構高いですし、とにかく何らかの収入がないと生活出来ません。
そのためには、僕自身の場合もそうでしたけど、学費・生活費は生協のような機関から「学費」として借り入れ、それをかなり長い期間をかけて返済していきます。僕が返済を完了したのは15年くらい前ですけど、とにかく一生かかって返済するわけです。「親の脛をかじる」という発想は、恐らく今のスウェーデン人にはないでしょう。自分の生活は、少なくとも大人になれば、自分の責任においてするものです。何かの理由で自立が出来ない場合には補助や支援を得るとしても、それは個人として得るもので、親から面倒を受けるというものではありません。
親とすれば、子どもが18歳を過ぎれば「自立」して個人として生活して行くわけですから、子どもが大学へ行っても自分自身で生活を賄うようになれば、経済的な扶養義務はなくなります。子どもに何かの障害があって就労が出来ない場合には、その子どもはやはり個人として自分の年金で生活するわけだし、人的な援助も個人として得られるわけですから、自分の仕事を犠牲にして成人した子どもの身の回りの世話をするという義務はありません。
ところが、日本では「親が面倒を見る」というのが前提ですから、親としては子どもの教育費が莫大にかかるだけでなく、それこそ「何かある時」には、親として何時どんな状況で自分の「扶養義務」を果たさなければならない時が来るか分かりません。親だけでなく、家族が病気になった場合、事故があった場合、あるいは何かの機能障害を持ち生活が出来ない場合、その扶養の責任は家族にあるわけです。ですから日本では、家族をさておき、他人の子どもを自分の子どもと同じように責任を持って育てる経済的・精神的な余裕がないというのが一般的なのではないでしょうか。
スウェーデンではもう2年前になくなった施設が、何故日本ではなくならないのか?日本では入所施設はなくせという声は聞えるけど、何故乳児院や児童施設をなくせという声が聞こえないのか?子どもが施設に住んでいるという状況が日常的な中で、障害を持つ人の入所施設だけがなくなるものなのか・・・?それを考えると、時々どうしようもない無力感に襲われます。
施設のあるなしもそうですが、一体日本には機能障害を持つ人やその家族を含めた一人一人が本当に自立して生活する状況があるのでしょうか?
生活における自立とは、ある特定の人に依存したりある特定の人の犠牲にならない、自分自身の生活を送る事じゃないですか。支援を必要とする事と、ある特定の人に依存する事は本質的に違います。支援を必要とする人と支援する人の間には、ある意味での契約があります。ところが家族の扶養義務が一生のものであるのなら、それは契約というものではなく、文字通りお互いを縛り付けるものです。それぞれが、一人の個人として自立する事すら出来ません。
「家庭に恵まれない子どもが住むのは児童施設」という現状が変わらなくて、どうやって障害を持つ人たちの入所施設だけがなくなるのでしょうか。そして、今日本でどのくらいの人たちが、「子どもは施設に住むべきではない」と声を出しているんでしょうか。その声が日本の隅々まで届くために、これからどのくらい多くの人が、どれほど多くの言葉を口にしなければいけないんでしょうか。
クラブEKO広報誌「ブレティーネン」No.20 2002年2月掲載文
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