スウェーデン知的障害者協会(FUB)会長


エライン・ヨハンソンさん講演


自らの生活を決める権利とその援助

 

97年2月、スウェーデンFUB全国理事会会長のエライン・ヨハンソンさんを招いて、EKOフォーラム’97が行われました。松江、大阪、神戸、札幌の各地で講演会を開催した後、締めくくりとして、川崎で講演会とシンポジウムが持たれました。 

講 師   スウェーデン知的障害者協会会長、エライン・ヨハンソン

通 訳   EKOデイセンター施設長、大滝 昌之

日 時  1997年3月15日

場 所  川崎市教育文化会館

forum.sapporo.elaine.jpg (20509 バイト)


写真提供:北海道新聞

基調講演(大滝昌之)抄録


 
ヨハンソンさんのお話に先だち大滝氏の基調講演がありました。福祉の制度や仕組みの違いを理解するにはその背景となるそれぞれの国の生活のありようの違いを知らなければならないという視点から、いくつかの問題点が、日本とスウェーデンとの比較で浮かび上がりました。

 
◆QOL(生活の質)と働くことの意味

 日本では、生活の質が「衣・食・住」ではかられる。スウェーデンでは、「住む(住居)・働く(昼間の活動)・余暇(自由時間)」となる。日本では、「衣・食・住」を満たすために働かなければならないということになるが、スウェーデンでは、働くことは、人の権利である。障害によって、働くことが阻害されるとすればそれは個人の権利が侵害されることになる。行政は全ての人に働く権利を保障しなければならないのである。

 
◆ハビリテーション

 障害者の療育に関して、日本ではリハビリテーションという言葉が使われる。スウェーデンでは、生まれつきの障害に対して復帰すべきモデルを考えないから、社会復帰というニュアンスをもつリハビリという言葉は使わない。障害者にももちろん療育的なアプローチは必要だが、それは、社会にいる全ての人達が能力を発揮し人間らしい生活をするためのハビリテーションである。リハビリテーションの訳語の一つに「更生」という日本語があるが、これは、よりよく生きるという意味で、本来リハビリではなく、ハビリテーションを意味しているように思われる。

 
◆専門家の役割

 障害を持つ人の周りには、親のほか、教師や施設職員、あるいは療育の専門家などがいる。日本では、本人がどうしたいと思っているかではなく、周りの人達がそれぞれの立場で障害者をどうしてあげようかと考える。立場の違いから指導や援助の方向がバラバラになることも珍しくない。スウェーデンでは、本人の意見を的確に把握しそれを実行するのが専門職の役割で、本人の申請がなければどんな援助もなされない。従って本人が自己決定しそれを表明することのサポートこそが、全ての援助の最終的な目的となる。日本の施設では「先生・園生」の関係が一生続くようだが、これはとてもノーマルとは思えない。専門家が障害者との垣根を作ってしまっているのではないだろうか。

 
◆知的障害者とは

 日本では、相変わらず、知能の低い人、つまり物事を理解しにくい人だから、どう教えようかと考える人が多い。スウェーデンでは、障害は本人の身体的、心理的特質であるばかりでなく、周りの環境との関係によって捉えられるものである。いろいろな理由で発達は遅いが、知的障害者も常に成長を続けている。

 
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エライン・ヨハンソンさん講演


自らの生活を決める権利とその援助

 

◆私の立場

 お招き頂きまして、ありがとうございます。 私は自分の事を紹介する時に、三つのことを述べます。
 
  まず、第一に、私は「ピア」という重度の障害を持った子どもの母親です。

 次に、私は、スウェーデンのイエーテボリ市にある日常活動作業所の教育センターの所長です。そこには、最重度の障害を持った人達や重複障害の人達が集まります。

 三つ目の役割は、スウェーデンの知的障害者の会のFUBの会長です。

 スウェーデンは人口約850万人で、そのうち35,000人が知的障害を持つ人です。そのうちで、FUBには大体35,000人の会員がいますが、その中味は知的障害を持つ人自身、親、あるいはそれに関心の深い人達、職員を含めた幅広い会員で成り立っています。

 FUB146の地方委員会と25の県単位の委員会から成り立っています。その様にしてスウェーデンでは、FUBのあり方というのが一般の政治機構と同じ様に国と言う単位と地方自治体という単位から成り立っているのです。


◆娘ピアと私

 私の娘、ピアについてちょっと説明しましょう。ピアは最重度の障害を持っていて大体発達段階からいうと812ヶ月の成長過程にありますが、でも26才という人生経験をもった娘として対応しなければなりません。

 彼女は身体障害も合わせ持っているので、外へ出る時は車椅子を使用しなければなりません。彼女には大きな発作を伴うてんかんもあり、1回4分くらいの大発作が日常的に起きる症状を持っています。彼女は多少の自傷行為を行うし、コミュニケートするのにも障害があります。コミュニケートすることが難しいというのは、例えば、彼女は言葉がしゃべれないということがあるんですが、その代わり、自分の目とか体とかというもので自分を表現します。

 彼女はオーストリアのアンドレアス・レット博士の名前を取って名付けられたレット症侯群といった病気を持っています。

 彼女はそう言うわけで、例えば、おしめを取り替えなければいけないとか、食事のときには助けなくてはいけないとか、洋服を着るのにも着れないとかいうような日常生活の中で、不自由を抱えて24時間のケアーを受けながら生活しているわけです。

 でも、彼女のことを言う時には、温かいお風呂が好きだとか、乗馬が好きだとか、特に音楽が大好きだとか、そういう26才の明るい女性であるという言い方も出来ましょう。その他に、彼女は、お父さん、お母さん、23才になるペーテルという弟に愛されて生活しているということも言えるでしょう。


◆障害者に対する施策の変遷

 今日は、ここでピアのそういう体験を通して、スウェーデンの援護のサービスの状況を歴史的な発展のなかから、見てみたいと思います。その中で、スウェーデンの状況というものを説明しましょう。それから、私の将来に対する展望ということなどについても述べてみたいと思います。

 1950年代には、医者が障害児が生れると「この子は施設にあずけなさい。そしてあなたは家に帰って新しい子どもを産んでその子のことは忘れてしまいなさい。」と言っていました。

 その80%の親というのは、医者の忠告に従って、子どもを施設にあずけ、残りの20%が子どもを引き取って育てた訳です。その、医者の忠告に従わず自分たちで子どもを引き取った20%の親達が運動を始めたわけです。

 その当時は医者というものが、非常な権限を持っていて、子ども達を「教育可」か「教育不可」かという分類で分けていました。「教育可」というのはその人が物を読んだり、書いたりすることが出来るかということが基準になっていたわけです。それ以外の読み書きが出来ない人達は、「教育不可」というふうに断定されていました。その当時にピアが生まれていたら、「教育不可」という分類に属していたでしょう。

 教育が出来ると判断された人達に与えられた道というのも、結局学校しかありませんでした。そして7才から21才になるまで学校に行くことが出来ました。ところが、学校を卒業した後、その人達に与えられるサービスというのは、あまり有りませんでした。ですから、私たちはその当時、そういう人達が働ける場所ということで、デイセンターというものを設立しました。それに伴って、その子どもたちが、うちから学校に通う、終わってから学校からうちに帰ってくるということの交通手段を援助するために、交通サービスという制度を作りました。

 卒業した人に対しての住宅ということは、その当時は入所施設という選択肢しかなかったものですから、私たちはグループホームということを考え出し、それが現在のグループホームの一つの原型となっているわけです。

 そのようにしてデイセンターを設立し、グループホームを作り、交通サービスを整えるという、そういう措置を作り上げて、それを社会に委ねるという形で発展が進んできたわけです。

 そういう訳で、私たちは、いろんな活動というものをイニシアチブを取って、まず活動の場を作り、それを社会に委ねるという形で行ってきました。

 60年代の半ばになると、法律ができて、私たち家庭で子どもを育てるという親達のために、補助金がおりるという制度ができました。それで1968年になって家庭にいる子どもたちがみんな学校に行けるという権利、あるいは住めるという権利というものを持つようになりました。

 この新たにできた法制というものが、1970年に生まれたピアとの関わりのスタートとなったのです。そのようにして初めて、一般のスウェーデンの人達が当然の様に持っていた教育の権利、1842年から私たちが一般的に持っている権利というものが、全てそういう人達に与えられた訳です。

 それによって得られる経済的援助というおかげで、身体障害を伴う重度の人達も自分の住宅を持って住むことができるようになりました。

 そのような経過の中で、つまり経済的な援助が出来ること、住宅に対する保障が与えられること、それらが制度化されたおかげで、それまで80%の人達が施設に送られたというのが、逆に80%の子どもが家庭に居ることができ、20%が施設に入るということになりました。

 1968年にできた法律によって、グループホーム、交通サービス、それからたくさんの社会的な援助、その他にショートステイなどというサービスが持たれるようになりました。丁度その頃、1960年代の終わりになって、同時にノーマリゼーションであるとか、社会的統合あるいはインテグレーションという概念が生まれてきたわけです。その法制度のおかげで、成人になった障害者も社会に出られるようになりました。

 このようにして、私たち親というのが、現在ある制度を作り出し、障害を持つ人の福祉というものを作り上げていく一つのきっかけを作ってきた訳です。


◆自己決定の時代へ

 そうした経過の中で、1985年にはそういう障害を持つ人達が施設に住んではいけないという法律が出来ました。同時にこの85年の法により、これから新しい人が施設に入るということが禁止されました。

 このような措置が取られていた経過の中での一番大きな理由は、私たちが知的障害を持つ人達に対する姿勢というのが変ってきたのが一番大きな理由です。それはどういうことかというと、それまでは社会の援助、サービスを受ける立場にあった知的障害を持った人達が自分の人生を決める主人公として新しい役割を持つことになったのです。

 スウェーデンでも有名なオーケ・ヨハンソンという知的障害を持った人が、自分の施設生活を書いた本を書きました。この本、彼の32年間の施設生活を書いた本というのは、各国語で訳されて出されていますが、日本でも大滝さんが訳したということで話を聞いており、私たちも今、心待ちにしています。

 オーケ・ヨハンソンは自分たちが、自分たちの立場で自分を含めて仲間達がどのような境遇にあったかということを、どのように考えているかということを初めて語った人の一人です。あらゆる研究が示しているように、入所施設に入っている人達は、基本的な人権というものが守られてはいないのです。

 最初は、2万人いた入所施設の住人というのが、現在は千人になっていますが、近い将来に0になるでしょう。

 ここで忘れてはならないのは、スウェーデンにおいても入所施設を解体するということについては、親とか職員とか、周りからの非常に大きな反対があったということです。でも、一度入所施設をでて、グループホームに住んだ人達は、誰一人として、前の施設に戻ろうとはしないのです。

 現在のスウェーデンでは、知的障害を持つ人達は、法律によってグループホームに、あるいは選択できる自分の住宅、それからデイセンターに入ることができるという権利を持っています。

 この40年の歴史が示すように、その知的障害者に対する権力というか力というかがどういうふうに変っていったかということを極めて明確に見ることができます。

 50年代には前にも言いましたように医者が権力を持っていました。1970年代になるとソ−シャルワーカーとか心理士とか専門職という人が権力を持つようになりました。私は、自分の体験のなかでもよく覚えているのですが、70年代には、そういう専門職の人たちから親としての私にこうしろ、ああしろといろいろ言われて、私達は親として何も言うことができませんでした。

 最近になって、実はそういう専門職の人たちよりも、私たち親自身が実際的な知識を持っているんだということがわかるようになりました。そのことがわかって以来、1980年代になると、今度は親というものが力を持つようになりました。でも90年代になると、その障害をもった人達自身が自分達のことを決定付ける時代になりました。そして、私たちのような周りにいる人達が彼らの言うことを聞かなければならないという立場に変ってきたのです。

 この様な経過には随分時間がかかるものですが、私たちは、それがどんどん変っていくものだという認識を、まず持たなければなりません。

 この法制化によって、障害を持つ人がその障害の重い軽いに関わらず自分たちの決定ができるということが明記されることになった訳です。それから、私たち周りにいる親とか職員とかいうものが、その個人が人間としての権利を持ち、自分の決定 ができるということに対しての理解を示すということで接しなければなりません。そして、知的障害を持つ人自身が相互関与権というものを自分たちで持って、私たちはその事を土台に接して行かなければなりません。


◆ピアの家庭生活

 ピアが1970年に生まれた時に、私には知的障害という人達に対する経験というものが、全くありませんでした。私は、それまで13年に渡って職業婦人として働いていたのですが、ピアが生まれて以来、ピアを育てるということになりました。それでピアが生まれて以来、私は本を読んだり書類によったりして、非常に多くの事をピアを通して学ぶことができました。

 74年の5月にピアの弟であるペーテルが生まれました。ペーテルが生まれると、丁度その頃、ピアがスウェーデンの政府で初めて設置された特別な幼稚園に入ることが出来たんです。最初は、この幼稚園で3時間入っていたんですが、それが次第に8時間というように長くなりました。そのように、経済的な援助が得られるということとか、いろいろなサービスを得ることが出来て、ピアは24年間家庭で生活してました。


◆ハビリテーション

 現在、障害を持つ人が生まれたり、あるいは判定されると、その始まりから、ハビリテーションチームというものが関わるようになります。

 ハビリテーションというのは、4つの要素からなってます。

 まず第一は医療の分野、第二番目には心理的、精神的な援助の分野、三番目は教育的な援助の分野、最後に社会的な援助の分野です。この中のあるものは、直接、障害を持った子どもたちに関わることもあるし、或は、私たち親に向けられて関わるものもあります。

 医療的サービスの中には、お医者さんであるとか、言語療法士であるとか、理学療法士であるとか、いろいろな専門職が含まれます。この様なサービスというのは直接子どもたちに向けられるものです。

 精神的、心理的サービスというのが、私たち親であるとか、兄弟であるとか、子どもを持つことによって、或は兄弟を持つことによって受ける精神的な問題について援助を受けるものです。

 社会的な援助というのは、例えば育児助成金だとか、或はゴードマン制度による援助とかそういうことも含まれます。

 教育的な援助というのは、知的障害という、いわゆる物を知るということに対する援助が行われるわけです。

 子どもは、まず幼稚園という場が与えられます。家庭に居る子どもたちには、例えばレスパイトであるとかショートステイであるとか、或はキャンプに出かけるとか、ということで私たちの代りになってくれるサービスというものが用意されています。


◆家庭での問題

 1980年になって、はじめてピアがショートステイのサービスを受けることになりました。それで1980年代から94年までにいたるまでに、そのショートステイの滞在を増やすことによって、結果的にグループホームに住むことができるようになりました。 通常、7才になると子どもは学校に行きます。でも、ピアは9才になって学校に入ったわけですが、その場合2年間における特別な期間というものが設けられているわけです。 

 その間いろいろなことがありますが、例えば、どうやったら自分の親戚に自分の子どものことを語ることができるかというようなことが問題になったりします。今まで、私は随分いろいろと家庭内の問題に出会いましたが、例えば、子どもが生まれるとすぐ、うちの家系にはそういう問題は無いという問題がかけられたことを体験しています。家庭内の問題というのが結局的には離婚につながるというのはたくさんあるんです。普通の家庭に比べると、障害児を持った家庭というのは離婚率が大体4倍です。その率が正確であるかということは別にして、とにかく、障害を持つということが家庭内でいろいろな意味での問題を持つということには違いありません。 

 この25年間の私の体験から見ると、障害児を持つということが家庭内の関係のなかでいい場合に向かっていくこともあるし、或はそれが悪い方に向かっていくような一つの形もありましょう。

 私自身の体験の中では、私たちの友人とか、親・親戚とか周りの人達というのは、私たち家族のことに対しては非常にかわいそうだなということを、皆思っていただろうと思うのですが、でも、ピアのことに対して心配しているということでは無かったようです。今から考えると私たちのことを心配してくれるのと同じ様な気持ちでピアのことを心配してくれたらと思います。知的障害を持った人達の全体の悩みのことを考えると、親とか家庭の環境を考えるということ、兄弟だとかおじいさん、おばあさんを含めた全体のことを考える必要があると思います。

 弟ペーテルとピアの関係についてはどうでしょう。ペーテルの友達で知的障害ということについて全く知らない友達というのが、昔、家に遊びに来て、それでペーテルが自分の姉をさして「これ、知的障害を持っていて、少し馬鹿で」と言ったことがあります。でも、たまには、その友達にピアに関するいろいろなことをしゃべって、要するにそういうことを説明していることもありました。私のうちはいつも近所の子どもたちとか、ペーテルの友達とかが遊びにやってくるのですが、そんなわけで姉のことを話すということは不思議なことでは無かったんです。でも、私はその間自分はペーテルに対してどんなことを話したんだろうか、どういうことをやってあげたんだろうかということを常々考えていました。

 ある出来事、私にとって非常にポジティブな出来事があったんです。その数年前に、インドのニューデリーで国際会議があったときでした。私とペーテルは、その国際会議の中で、兄弟についてという分科会に出席しました。兄弟のことを話すというのは非常にデリケートな問題であるんで、暫くたつと、会場にいた全員が自分たちの経験、兄弟を持つというなかでの体験を泣きながら話していました。私は勿論そばに座っていて、ペーテルがどんな気持ちでその話を聞いていたんだろうかということを気にしてました。

  それで、その会が終わってから、私はその時の様子をペーテルに聞いて、どんな気持ちがしたか尋ねてみました。私はペーテルに、何か今までそこで話されていたことが自分に関わり合う感じがしたかということを正直に話してくれるように言いました。「母である私をどんなに責めてもかまわないよ。正直にあなたの気持ちを話してごらん。」と言いました。彼がその分科会で話された事についてどういう聞き方をしたか、どういうふうに自分で感じたかということを知りたかったんです。そしたら彼は私の顔をじーっと見て、目を見ながら「母さん、あんたはいい母さんだったよ。」と言いました。親としてそれ以上の点数を付けられることは無いと思います。


◆重度障害と治療ということ

 スウェーデンでは、伝統的に子どもが大人になると、親から離れて自立していきます。では、例えばピアのように最重度の障害を持つ人がどうやって自立していくことが出来るんでしょう。私は、どんな重度な障害を持った人たちでも、自分の意志というものを持ち、自分で決めるということが出来るということを確信しています。でも、それには、最重度の障害を持った人達がどういう人達であるかということを知ることが大事です。

 まず、治療ということはどういうことなんだろうということを知るということです。

 治療というのは要するに自分たちの五感による感覚によって与えられた情報をどうやって整理していくかということです。そして、その整理された知識というものを五つに分ける要素によって分類していきます。それは、一つには「空間」という感覚です。それから「時間」「質」と「量」と「理由」の五つです。

 簡単にちょっと、その事について説明したいと思います。もしピアがこの場にいたとしたら、彼女にとって経験するというのは、世界というのは、今ここにいるだけの感覚です。例えば最重度の人達にとって、ドアの外には何があるかということを理解する概念は得られないわけです。じゃあ、どうやってその最重度の人達に「ドアの外には何があるんだろうか」ということを説明することができるのでしょうか。

 例えば、トイレのドアということについて考えてみましょう。具体的に簡単にいうとドアの前にトイレットペーパーを下げておく。私たち、一般の人達はドアにシンボルとしてトイレの絵が書いてあるとわかります。私達は目、視覚から入る感覚を一つの基準にしています。でも、どうやって他の五感を使ってそのトイレということを理解することが出来るでしょう。このペンというものがトイレットペーパーであると仮定しましょう。で、このトイレットペーパーをピアの手に与えてあげる。ここには、触覚という一つの感覚が有るわけです。それを、動かしてみることによって、今度は音がでて聴覚を刺激することができます。それで口に持っていくと、例えばそれが味覚という感覚になります。そうすることによって、トイレットペーパーというものがいろんな感覚を刺激することによって、トイレというものを理解する一つの鍵となるわけです。それで、そのトイレットペーパーをドアに又、掛けて、トイレに入るわけです。で、前もってピアに、これから先のドアの裏側がトイレであるということを認識させる可能性を与えることになるわけです。このように考え方を変えていけば、ありとあらゆる日常活動というものがその人達にとって容易になります。

 その人達が理解していくようにするのは、実は私たち自身が、彼らがどういうふうに物を知ることが出来るのかということを学ぶというところから始めなければなりません。最重度の人がどういう人達であるのかということを考えると、そのようにして、今ここにある感覚ということからまず出発しなければならないわけです。でも、最重度の人達も、経験を積み重ね、それを繰り返して行くことによって、それが「記憶」という形で残ることもあります。

 「空間」という概念、つまりこれは「ここにある」ということです。私たちは一般的に「空間」という感覚を持って、例えば宇宙と言うものを感知することもできます。「時間」という概念は、例えば「今」とか「昨日」とか「これから何がおこるだろうか」ということです。時間ということ、分ということ、秒ということ、そういうことによって「時間」ということを学び覚えていきます。「時間」の極限というものは「無限」ということですが、おそらくここに居る皆が「無限」ということに対しての概念はなかなか分らないでしょう。でも、ピアのような最重度の障害をもっている人たちにしてみれば、昨日あったこととか、これから何が起こるだろうかという概念よりも、今現在ここに起きているという概念が大切なのです。ですから、私たち周りに居る親とか職員とかというものは、時というものを彼らが理解するためには、今ここにあるということから出発しなければなりません。

 「質」とかいうものになると、物の形状とか性質ですね。例えば「青いボール」とか「赤いボール」とかいうことを考えてみましょう。また、一般的に、「小さい」というのは、犬は小さいと言うけれども、象は大きいとか、そういうことを考えます。林だとか草花とか、大きい窓も小さい窓もある。「質」ということの概念を考える時、それでいろいろなことを説明する、いろんな説明を理解するっていうことで概念がわかっていくわけです。

 「量」という概念は、例えば、数を数えるということ。ピアというのは、数えるということが出来ないし、それを理解することが出来ないんです。

 次に「理由」ということにいきますが、大滝さんがさっき言ったように、外に行ったら雨が降っているから濡れるというような問題です。例えば、熱い電熱器の上に手を付けると火傷をするというような概念。バスの前に下りてそれを横切ると、もしかしたら自動車に轢かれるかもしれないし、場合によっては死んでしまうかもしれないという概念。それが最重度の障害になると、これをこうしたからこうなるというような結果の話というものは分らないわけです。ですから、私たちがこの人たちと対処するためには、この人たちがどういう人達、どういうことが分かるのかということを考えなければなりません。


◆ピアの自己決定

 では、どうやって、例えばピアが、私のそばを離れて自分の生活を始めるということができるようになるでしょう。

 ピアの住まいが新しく作られるというので、私たちはそこを何回も何回も訪れて材料であるとか、その作られている過程というものを常に見てきました。例えば家具を買うという時にも、家具屋に行って、椅子に座ってみたり、家具に触ってみたり、いろんなことをしながら、私は彼女がどういう反応を示すかということを注目して見るわけです。

 現在彼女は35平方メートルの自分のアパートを持っています。そのアパートというのは、玄関とお風呂場(シャワー室)それから大きな居間から成っています。そのほかに、簡単な料理ができるような小さな冷蔵庫が付いていたり、食物棚がついているような台所も持っています。彼女は3人の、それぞれのアパートを持った同居人とそこに住んでいます。それでこのピアを加えた4人の人達が共同で生活できる居間というものも持っています。

 ピアは自分で、自分をケアするパーソナルアシスタントというのを自分で選びました。まず私がやったのは新聞に広告を出して彼女のケアをする3人のパーソナルアシスタントを募集したんです。ご存知のようにスウェーデンは失業率が高いですから、非常に多くの人が、その広告に応えて来ました。で、私は大勢来た応募の中から大体、例えば年齢だとか教育だとかそういうことのなかで大雑把に人を分けました。それで私はアシスタント候補というものを私とピアを含めて会って、ピアがどういう反応を示すかということを見ました。その3人のアシスタントというのは、6カ月の試行期間というものを設けられました。で、その試行期間中、私はピアがその人達に対してどういう反応を示すかなということを注意深く見ていました。

 その3人のパーソナルアシスタントの中で、一人は、その経過のなかで、私はこのピアの仕事に合わないということで辞めました。その中で、ピアと私が選んだというアシスタントだけが残るということになりました。その他に、夜のケアをする3人のアシスタントがいて、その1ヶ月の日程を10日づつ分けてケアをやってます。

 この住宅というのは新しく94年に出来た法律によって生まれました。法律によって可能になった住宅の方式というのは、ピアと私が自分で自分の生活を決めることができるという一つの最初のモデルとなったのです。ピアはそのため、現在非常に楽な生活を送っています。それによって、この24年間、ピアを私と夫とペーテルという形で見たわけですが、現在、そのようなことによって他にもピアのことを知る理解するという人たちに囲まれてピアが生活しているわけです。それによって、ピアが新しい経験や体験をすることによって安心して暮らしていくことが出来るようになりました。

 一つ例を言いましょう。2、3年前にイエーテボリ市で陸上世界選手権が行われ、街中が人で溢れました。街で一番長い道路が歩行者天国のような形になりました。その大きな通りが何千人という人で埋められて、音楽だとか、カフェとかあらゆるいろんな催しが行われていました。私は、何とはなしにピアをこんなとこに連れてきたら大変だなあ、ピアは大きな音が嫌いだし、こんな人込みがたくさんいると大変だから、ピアは来てもらったら大変だと言いました。それで私の夫は頷きました。30年間生活を続けていると、夫というものは妻の言うことには何でもハイハイと答えるものですがね。で、私はそれからしばらく経って何人かのアシスタントに会いました。私たち、普段、アシスタントの人たちとはしょっちゅう会ってるんです。

 物凄い人が出てる話をした時に、「あなた、ピアがあの人込みの中に入ったの考えられる?おまけにビールも飲んだのよ。」と言いました。それで私は、アシスタントに「私、ピアを連れてくるなとあなたに言わなくて良かったと本当に思ってるよ。」と言いました。それで、その代わり、もっとピアの意志を汲んであげて、ピアの好きなことをどんどんやらせてあげて下さいと言いました。そんな体験から、私は自分がFUBの会長という立場からも、全ての重度の障害を持った人が、普通の人と同じ生活が出来るということを望んでいます。


◆これからの方向性

 そんな25年の流れの中と体験の中で、私は自分なりのビジョンを持っています。その一つが、知的障害を持った人たちが、社会のあらゆる人と同じ権利を持って、同じ様に社会の中で暮らしていくということ。それから、知的障害を持った人たちが普通の人たちと同じ様に生活しなければなりません。その為には、入所施設というような大きな施設というものは廃止しなければなりません。スウェーデンの知的障害を持った子供たちは、普通の子供たちと同じように普通学校に行って、その人のニーズに合わせたケアを受けながら、普通の学校に行かなければなりません。そうして、又、デイセンターというものも廃止して、知的障害を持つ人たちがその人の能力に応じた仕事が社会の中で行われるというようにしなければなりません。

 端的に言うと、私たちはいろんなグループに分かれて話しをするんじゃなくて、その個人のニーズという立場の中で、その個人に合わせた生活というものを考えるということです。今までの全ての成長、発育、発展というものは、その方向に向かっていることを示しています。

 残念ながら、その様な生活ができるという時には、私たち、ここにいる全員が生きているうちにできるとは私には思えません。だけども、いつかその日は必ずやってくるでしょう。この思いが、私を知的障害の人たちのために働くという一つの大きな力となっているわけです。

 どうもありがとうございました。




シンポジウム(抄録)


    出席者:

  柴田洋弥(デイセンター山びこ) 司会

  田中栄子(横浜市戸塚区栄区泉区育成会)

  松友了(全日本てをつなぐ育成会常務理事)

  エライン・ヨハンソン(FUB)

  大滝昌之(EKO)


 

柴田: まず、講演を聞いての質問をどうぞ。

田中: 自立させたときの親としての気持ちは?

ヨハンソン: 親にとって子供を手放すのはつらい。障害があればなおさらです。でも、ピアが幸せに
        暮らしているのを何度もみているので、今はとても喜んでいます。

柴田: ピアが家を離れる経過は?

ヨハンソン: 80年から週末のショートステイを始めました。ピアの介助で夜眠れない事が多かったの
        で私には大変助かりました。それから徐々にステイの時間を長くし2年目は
100
日くらいステ
        イしました。
          実際ピアが私から離れた時は、初め私と夫が交代で毎晩ピアの所に泊まりました。医者や美
        院に行く日も最初はこちらで指定していたのですが、だんだんアシスタントに任せ、今はノー
        タッチです。本人にとっても親にとっても、別れは急激でなくそれれの状況に合わせることが
        大切でしょう。

柴田:    日本でショートステイとは入所施設か病院へ入ること。スウェーデンでは、街なかにあるが、
        日本にはないので・・。

ヨハンソン: スウェーデンでは親を援助するいろいろな手だてが考えられている。ショートステイに
        しても、グループホームにあずける事も出来キャンプに送ることもできる。
          重度の場合、パーソナルアシスタントと旅行にも行ける。どういうサービスを選ぶかは、家
        族に権利があり調整できます。パーソナルアシスタントも、私の娘のように重度の場合、同じ
        人が継続してやらないと本人が不安になる。そういうことも行政に要求できる。 ショートス
        テイは、家庭にいるのと同じ条件で生活するのが基本ですから、そこから学校やデイセンター
        に通うのも当然です。

柴田:   会場からいくつか質問をいただいています。 知的障害者の結婚については?

大滝:    結婚したい人は出来るし、本人の意志以外に妨げるものは何もありません。スウェーデン
        には、結婚のほかサンボ(届け出はしないが実質上の結婚)の制度もあり、一緒に住みたいと
        思えば、障害のレベルには関係ない。人を好きになるのは当然で、周りの人は、この人が普通
        の人だったらどうするかと考えて対処をします。もちろん、結婚は誰にとっても難しい問題
        で、普通の人も何回も失敗を重ねることがありますよね。

柴田:    新たに入所施設に入ることは禁止されているという事ですが、その法律が出来た経緯と現在
        入所施設にいる人々の今後は?

ヨハンソン: 68年の法律から施設を出る運動が始まりました。最初は、70年代も重度の人は一生施設
        暮らしだろうという雰囲気でした。

         
スウェーデンで障害者が入所施設から出て、街で暮らすようになった根拠の一つは、様々な
        研究の結果です。施設にいる障害者の生き方や考え方を調べると、施設にいるために障害が大
        きくなっている事が分かってきた。もちろん、施設は良い動機で建てられ、親もそこで過ごす
        のが本人にとって一番だと考えてきたわけです。しかし、施設での生活状態が良くないことに
        気づいた。これは親にとってもつらいことです。
          よかれと思って作られた施設であっても、それが、かえって障害者の生活を悪くしているの
        であれば、親や職員は自分たちの責任で施設を廃止していかなければなりません。
          もう一つの根拠が1985年の法。これでどんな障害があっても子どもを施設に入れてはいけな
        いことになりました。現在残っている
1000人も施設から出ますが、今経済状況が悪く、しばら
        く時間がかかるかも知れません。

柴田: 親が子供を育てられない場合は?

大滝:    どんな障害の重い子も普通は親と住んでいる。不可能な場合は、学生寮、ショートステイ、里
        親制度などの選択肢があります。

柴田: 後見人、ゴードマン(代理人)、パーソナルアシスタントなどについて?

大滝:    パーソナルアシスタントは、日常生活での不 自由を援助する人。ピアのような場合、自分
        で雇い援助を受けるのです。
          コンタクトパーソンは、友達として電話で話したり外出したり映画につきあったりする。こ
        れももちろん制度上のことです。
          ゴードマンは自分でサービスの申請が出来なかったり、財産の管理の出来ない人のための制
        度で、裁判所によって決められる。一般的には親です。

柴田: 松友さんからもコメントを。

松友:    90年頃から、日本でも自己決定ということが注目されてきた。しかし親には大きな戸惑いが
        ある。一つは、本人の自立という時、必ず家族が反対する。それは、日本において家族に対す
        る援助がないからです。従来、子どものことは親のみに押しつけられてきたのに、今度は自立
        だ自己決定だといわれる。今、日本で施設を解体したらまた家に戻る。そして母親が犠牲にな
        るという状況を改めなくてはいかんのです。民法の改正も含めて、家族法のあり方を考え直す
        ことを念頭に入れて運動を進めています。

柴田:    スウェーデンも少し前までは大家族で親に責任があった。その後、施設時代になり今に至って
        いる。日本も似たように進んでいるのではないでしょうか。親のあり方も問われていくのでし
        ょうが。

松友:     私は大江文学のファンだが、その彼も親としては、昔の日本の家族のあり方を引きずってい
         る。作業所への通うのに、公的援助に考えが至らず親が送っている。

田中:   うちでも、息子は電車が好きなのだが、夫が定年後は、周りの迷惑とかを気にして車で作業所
        へ送迎しています。やはり日本の風習が根を張っている・・・

大滝:   先ほどの松友さんの著書に「父は吠える」というのがある。叫ぶどころではない、吠えない
        といけない状況なんですね。本人だけではなく、親も当事者です。自分を主張することは、他
        人の主張も受け入れること。これが日本では難しい。スウェーデンにはない「なまいき」と
        か「つつましい」という価値観が邪魔しているのでしょうが。

松友:   それと、さっきも言ったように日本には支えるシステムがない。日本は異常な人を正常に近
        づけるという発想なので訓練になってしまう。援助のための機関がないんです。

柴田:   最後に、ピアの表現をどう読みとっていったのか教えて下さい。

ヨハンソン: 重い障害を持つ人とはお互いの密接な関係が重要。ピアのことでは1000回も絶望しま
        した。何故自分をたたくのか、泣くのかと・・・。私には分からないピアの行動をノートに書
        き出し、その中でパターンを見い出そうとしました。
          発作が朝の
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時頃に起きていて、医者に相談すると朝方は糖分が少なくなるからかも知れ
        ない、それで朝夕ジュースを飲ませたら、たまたま効いた。こんなことを重ね、日常生活を詳
        しく見るうちに彼女を深く知るようになっていったのです。
          例えば、バナナをあげた時、息子がアイスクリームを取り出すと、ピアはバナナを食べな
        い。それで、彼女がアイスを食べたいという事が分かりました。こうして本人の意思と生き方
        を知り、自立させられたのです。
          もちろん、未解決のことが多く、このプロセスは一生続くでしょう。一番大事なことは、ピ
        アの問題点ではなく可能性です。出来ないことではなく、出来ることに目を止めていったら彼
        らの笑みが増えることを保証します。全て私たち次第。親も訓練を受け、ふさわしくないアシ
        スタントは変えるべきです。

柴田:   日本でも90年代に自己決定という課題が取り入れられ、障害者観が変わってきている。私たち
        はそれを訴え、考えてきました。本日、エライン・ヨハンソンさんの話を聞き、改めて、障害
        を持つ方々のかけがえのない人生、生きていて良かったと思える生活、そのための支援の大切
        さを確認できたと思います。ありがとうございました。


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